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10.02.17 主語は「日本」ではないと思う件 [いろいろ]

検索エンジンとかに引っかかって、この件が盛り上がってるって思われるのもイヤなので、固有名詞は出さないけれど。
今回の騒ぎで思ったこと。


「この国はいつもそうだ。出た釘が打たれる」
「日本って言うのは個性を尊重しない」
「みんなでよってたかって。なんでこうなんだ、この国は」

彼を擁護しようとしての発言であることは、じゅうぶん承知しています。
その気持ちはしっかり理解しているつもりです。
その上で、あえて。

主語をハッキリさせないと、僕らの主張は届きません。
たとえば報道を見てから怒ったのであれば。

「●●局の△△というニュース番組は、基本的に怒りをあおる番組作りをするようだ。そのために、出るてもいない釘を打っているように見える」
「●●新聞は会見趣旨を曲げてまでも物事を大げさにする質問をして、ニュースを創り出そうとする傾向があるようだ」

とか。

実際、今回の騒ぎの口火を切ったのは新聞だったけど。
特に二個目に報道された記事には悪意さえ感じられました。
そして、世の中はその二個目の記事がネットで配信されたのを見て
「オモロいこと見つけたよ。クレームもあったらしいよ」
「アイツ、規則にそってないよ。正義は我々にあるから、我々が非難されることはないよ!」
って一気にそっちに傾いていったように見えます。
その後は
「気に入らん! とにかく気に入らん。理由はいくらでも見つけてくるよ!!」
遠いところから一斉に「正義の側に立った、正当な批判」を展開したように見えます。
ま、その二個目の新聞記事だけが原因とは思えないですけどね。
所属団体のまずい対応と意図的な編集による報道が、事態を大げさにしていったけど。
本質は初日から置き去りにされたまま。

話を戻すと。
日本っていう国がダメなんじゃないと思います。
桜の美しさも、雪の凛々しさも、夏山の力強さも、秋の田畑の豊かさも。
瑞々しい風景も、雄大な海も、愛すべき家族も友人も。
すべてこの「日本」という国の言葉の中に含まれています。
ひとつの偏った報道だけを見て、「日本」という国を丸ごとおおざっぱな集合的主語として、すべて否定するのは悲しいことだと思います。


もちろん分かってます。

「なんで日本はそうなんだ!」

っていう時の「日本」は、「日本」っていう国のコトじゃなくて「日本」としか言い表しようのないぼうっとした固まり。
ゴシップ好きな大衆のことですよね。
誰って特定できない、不特定多数の人たちのことですよね。
だけど、そうだとしたら余計に。
「この意見に賛同してるゴシップ好きな人たちは、どうしてそうなんだ!」
にしましょうよ。
そうじゃないと、議論が先に進みません。
主語を「日本」にしちゃうと、偏った報道や、それに盲目的に追随する人たちを問題視するんじゃなくて、「日本」って国の文化とか歴史とかにハナシがすり替わっちゃうんですよ。
きちんと主語をハッキリさせないと、だれがこのバカバカしい事態に燃料をくべつづけてるのかが見えなくなるんですよね。

そうして、「みんな」がそっちになびいていった根拠を意識しましょうよ。
テレビや新聞で気になることがあったなら、具体的にこの報道のしかたはいかがなものか。
さらに突き詰めれば、この事態をこういう形でしか報道しないこのテレビ局や新聞社の姿勢は。
もっと言えば、こういう形に編集してしまうディレクターの誰々氏の姿勢はジャーナリズムたり得るのか。
といった、発信した側の責任の所在を明らかにしてから意見する、っていう姿勢が大事だと思います。
そうじゃないと、いいかげんな記事を書いたり、記者やディレクターの好みに偏った報道をした側は咎められず、
責められるのは正体のない「日本」ばっかり、ってことになっちゃいます。
これじゃあ何年経っても、どんなに建設的な意見が展開されても、何も変わりませんから。

というわけで。

新聞記事は記者が記名で書き、テレビの報道は取材者とディレクターの名前を表示するべき。
少なくとも読者や視聴者から問い合わせがあったらそれに答えるべきだと思うんですよね。
そして僕らは主語を明確にして、この事態を改善するためには誰に向かって発言すればいいのかを意識しておきたいなぁと思ってる次第です。


以上。
(文責/フリーライター・林 拓郎)

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