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10.06.25 「誰が誰に何を言っているの」 by 森 達也 [本や映画、音]

作者の森 達也さんはドキュメンタリー映画を作ってきた人。
オウム真理教を題材にした「A」や「A2」で有名だね。
「いのちの食べかた」や「王様は裸だと言った子供はその後どうなったか」なんて著書で、物事の本質を描き出す作家でもあるよ。
ちょっとネットで検索すれば、森さんの著書はたくさん見つかる。

で、今回読んだのはこれ。



町中にある『防犯カメラ』ってどういう意味なんだろう?
言葉だけのイメージだと、誰かが見守ってくれていて、危ない状況になると助けに来てくれる、っていう印象がある。
けどそうじゃないことは、ちょっと考えれば分かるよね。
実際には誰かが危ない状況になったら助けに行く、んじゃなくて、誰かが面倒なことをしないか監視(リアルタイムの監視もアリだし、映像を記録しておいて後で見直す監視もあるね)してる。

町中で見かける『防犯カメラ』の正体と、そこに書かれてる「防犯カメラ作動中」の意味。
『テロ警戒中』『特別警戒実施中』といった看板は何を訴えようとしてるんだろう?
日常の中に入り込んできてすっかりなじんでしまった「警告」や「注意」を改めて見直してみると、それは違和感の固まりだ。

いつのまにか、僕らは脅かされている。
危ない世の中になった、と。
むごたらしい殺人事件が起こり、少年は凶悪犯罪にはしり、子供は変態の餌食になり、若い女性は通り魔に襲われる。
テロの危険性は常に社会を覆い、明日にもこの国めがけてミサイルが飛んでくるかもしれない、と。

ホントに?

今の日本は世界的に見てもトップクラスに治安のいい国だ。
たとえば殺人事件の発生件数をみても
「2002年度版の犯罪白書によれば、人口10万人あたりの年間における殺人発生数は、アメリカが5.5件でフランスが3.7件、ドイツは3.5件でイギリスは2.9件、そして日本は1.2件だ。(ただし警察庁がまとめる日本の殺人事件には、前述のように予備や未遂に一家心中まで含まれているから、実質は1.2の半分強の数値と推定される)」
(引用元:『誰が誰に何を言っているの』 P35)

さらに。この国の治安は良くなっている。
「2010年1月14日、昨年(2009年)1年間に起きた殺人事件の総認知件数が1097件であったことを、警察庁が発表した。戦後において最も少なかった2007年の1199件をさらに102件下回り、最小記録をまた更新したことになる」
(引用元:『誰が誰に何を言っているの』 P2)

殺人事件は認知件数がいちばん多かった1954年の3081件から、1/3にまで減ってる。
データ上での日本はじゅうぶんに治安が良く、安心して暮らせる国なのだ。
なのに『防犯カメラ』が設置され、いろんな町で『こどもたちを守ろう』としてパトロール隊が作られ、うっかり公園で子どもに近づくと犯罪者扱いされる。

いったいみんな何を恐れているんだろう?
この国は年々安全になっているのに、どうしてそのことが報道されないんだろう?
どうして凶悪犯罪が増えている危険な時代、という印象ばかりが目につくんだろう?
誰が誰に何を思わせたいんだろう?

危機に備える。
それ自体は決して悪いことじゃない。
人間は用心深く、恐がりだからこ、貯えたり、あらかじめ作ったり、用意したりすることができる。
未来に備えて今を生きることができる。
不安や恐怖は、生き残りの準備を促すモチベーションだ。
それが人類の進化や発展を促してきた。

だけど起こりそうもない危機に対して、周到すぎる用意をすることは意味がない。
そんなの当たり前でしょ。
この本の中では「マムシに注意」の例で話されるけど、
僕らは出るぞ出るぞと脅かされてるから、柳の木が幽霊に見えるようになってしまったのかもしれない。
そして、こう言いはじめる。
「用心してしすぎることはない。ホントに幽霊だったらどうするんだ!」
ってね。

凶悪事件は刺激となって視聴率を稼ぎ出し、不安は備えのための保険や携帯電話を買う理由に変わっていく。
そう、周到すぎる用意は、ある種の業界を潤わせることになる。
不安は商売になる。
ダイエットも健康も、抜け毛予防も頑丈な車も。
不安が出発点だ。

そんな社会のからくりを見抜いたとしても。
「ホントに幽霊だったらどうするんだ!」
の声に反論はできない。
だってそれは正論だもの。

正論。正当な理屈。正当な正義。
タダシイイケン。
正しいからこそ、人間はこの「正当」という部分をいいわけにして暴走する。

森さんが恐れているのはこの「正義の暴走」だ。

悲しむ人がこれ以上増えないように、社会全体で警戒する。
用心する。考えられる限りの事態に備える。
そして正義のために、今回だけと例外的措置を執る。
正義のためならしかたないと、法をねじ曲げて解釈する。
みんなのためなら仕方ないと、個人を一斉に攻撃する。
それがある一定方向に向かってしまうと、正しいことのためなら仕方がないのだと、最後の一線を踏み越えてしまう。

巻末、この本が何を言わんとしているのかがハッキリと記されている。

「過剰なセキュリティは不安や恐怖を軽減しない。むしろ増幅する。その帰結として仮想的が生まれ、「やらねばやられる」との大義になる。こうして「愛する人を守るため」の防衛戦争が始まる。」
(引用元:『誰が誰に何を言っているの』 P232)

歴史上、侵略を意図した戦争は希だ。
戦争当事国にしてみれば、その戦争は「やられる前にやらなければならなかった自衛の戦い」であり「大事な人たちを守るために立ち上がった、正義の防衛戦争」なのだ。
なぜなら、人は悪意だけで人殺しはできない。心がじゃまをする。けれど正義や大義があれば、温厚な誰かであっても大量殺人は可能になる。
まず被害者になることが、事態を拡大していくもっとも簡単な方法だから。

この本は日常に溶け込んだ『防犯カメラ』という言葉からはじまって、その裏にある事なかれ主義、商業主義、極端な正義感、過剰な危機意識を描き出し、最終的には戦争の始まるメカニズムへと辿り着くよ。
防犯カメラから戦争? んな大げさな〜〜、って思うかもしれない。
けど。
読み終わると、大げさには感じないだろうな。
たしかに正義が暴走すると怖い。
それを止めることは難しい。
そしてそこに被害者意識がのっかれば、さらに止めることは難しくなる。

過去の戦争を止めることができなかったのはなぜなのか。
今思えば、なぜあれほどバカなことをしたのかと思うけど。
きっとその時、世の中は「被害者意識」にのっとった「正義の暴走」状態にあったんじゃないかな。
それは誰かが何かをすれば止まるってもんじゃない。
その渦の中にいる限り、「セイギハワレニアリ」なんだからね。
止めようとするのは「ヒコクミン」なのだ。

「「自衛戦争だから正しい」との論理に対しては、「すべての戦争は自衛の意識から始まるのだ」と反論するだけでいい。」
(引用元:『誰が誰に何を言っているの』 P192)

とあるように。
僕らは歴史から戦争が起こるメカニズムを学んできたはずだ。

暴走する正義と過剰な用心深さが、やがて疑心暗鬼と被害者意識に変わり、自称「防衛戦争」へと突入していく。
その失敗を繰り返さないために、僕らは最初の一歩を踏み誤らないようにしなければならない。

このセキュリティは現実に照らし合わせて、必要なのか。
これは誰が誰を守るために、何を意図しているのか。
誰が誰に何を言っているのか。

一歩だけ深く考えれば、正義も暴走しないはずだ。
敏感すぎる危機意識は思考停止の事なかれ主義に他ならない。

用心すべきマムシがいるのか、いないのか。
それを見極める賢さこそが、愛する人を守ることに繋がるんだと思う。







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